2016年4月21日木曜日

善と偽善とそれ以外

司法書士の岡川です。

前回、熊本とは関係なく書き連ねるとか書いておきながら、ちょっとだけ地震と関係あるネタを。
思いついたときに書いておかないと、慢性的ネタ枯渇ブログですからね。


大きな災害が起こると、楽しいことを自粛するしないの話のほか、善と偽善の議論も出ますね。

有名人が何か大きな支援活動をすると「偽善」だと批判されることがあります。

あるいは、その批判が来る前に先回りして「やらない善より、やる偽善」という、誰が言い出したか知らないけれど有名なフレーズを引用して、「偽善ですが何か?」という保険を掛ける手法も、お約束となりつつあります。

善と偽善に関して哲学的な定義があるのかないのか、私は専門外なので寡聞にして存じ上げないわけですが、いわゆる「偽善」といわれるものの中にも色々あって、その中には偽善ですらないものがある。
そういう「偽善ですらない行為」が批判されるんだろうな、というのが私の考えるところです。


例えば、最近、高須クリニックのYes!高須先生(あれ?そんな名前じゃなかったかな)が、熊本で私財をばら撒くと宣言して自前でヘリを調達して救援物資を積み込んで救援に向かいました。
Yes!先生は、これまでも、災害が起こると1000万円とかぽーんと寄付したりしてます。

なかなか通常人にはマネできることではありません(主に資力的な意味で)。


これらの行為、真に心から「被災地の力になりたい」という動機で行われていた場合、これはまさしく善行であると評価されるでしょう。
他方で、これが高須先生の名誉欲であったり、クリニックの宣伝のために行われたとすれば、これが偽善ということになると思います。

辞書的な意味では、表面上善行であっても内心が伴っていないというのを偽善というらしいですからね。


で、実際の高須先生の本心なんてものは、他人にはわからないもので、本当の善行なのか偽善なのかを客観的に判断することは難しい。
ただ客観的にみれば、少なくともその行為で助かる人がいて、その動機がどうであったかというのは実はあまり関係がない。

動機がどうであっても(=善であっても偽善であっても)、同じだけの利益を享受する人がいるのだから、それ自体は「良いこと」と評価すればいいんだと思います。

そういう意味で、「やらない善より、やる偽善」というフレーズは、妥当するわけですね。

偽善と言われる行為であっても、その行為自体は社会的に有益ならそれでよし。
偽善を行う人に対する評価、つまり、その人が善い人か悪い人か、好きか嫌いか、信頼できるかできないか、お友達になりたいかなりたくないかってのとは、切り離して考えればいいと思います。


他方で、「偽善ですらない行為」の代表が、「千羽鶴(に代表される被災地でゴミにしかならない物)を被災地に届ける」といった行為なんだろうなと思うわけです。

水や食料が不足し、寝るところにも困っている被災者にとって、千羽鶴というのは何の役にも立たないどころか、その仕分けに人員を取られるわ、結局ゴミになるから処分費がかかるわで、迷惑な贈り物の代表となっています。
「第二の災害」とかいうらしいですね。

そのため、以前から、災害のあるたびに「やめてくれ」という声が上がっているのですが、それでも送る人がいます。

偽善というのは、表面上は善行である(ただし内心が伴っていない)から偽善なわけで、迷惑をかけている時点で、これは偽善ですらない。
そうすると表面上も善行でないこれは何というんですかね。
独善とか自己満足といったところになるでしょうか。


千羽鶴を送り届ける行為が、本当に「被災者の力になりたい」という善意から行われたことであったとしても、客観的に迷惑な行為であれば、それは善行でも偽善でもない。

偽善ですらなければ「やらない善より、やる偽善」なんていうのも妥当しないわけです。
偽善ですらない行為は、やらない方が良い。


もちろん、ある程度落ち着いたところで、さあ復興に向けて頑張ろう、という段階になってこれを励ます為に送る分には、良いのかもしれません。
しかし、少なくともそうでない段階で送るのは、何の役にも立たないどころか迷惑をかける。

支援というのは、支援する側の思いでやるものじゃなくて、支援される側のニーズに応えるべきものです(災害支援だけでなく、あらゆる支援はそういうものです)。


本当に復興を願うなら、千羽鶴を作る折り紙を買うお金でくまモングッズの1つや2つ買った方が被災地のためになると思います。
まあ、くまモングッズの利益がどこまで熊本に還元されるのかについては、私はくまモンの権利関係について専門外なのでよくわかりませんが。


では、今日はこの辺で。

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