2016年4月28日木曜日

犯罪論における主観主義と客観主義

司法書士の岡川です。

前回の記事に通じるのですが、人の行動を評価する場合に、主観面を重視するのか、客観面を重視するのかによって、その評価が異なってきます。
平たくいうと「悪さばっかりしてるが根はいいヤツ」とか「外面はいいけど性悪なヤツ」とかをどう評価するかという話ですね。

人の行為の評価は、道義的・倫理的な話だけでなく、法的な価値判断でも問題になります。
法的な価値判断で「悪いこと」が「違法」と評価されることになりますが、何をもって「悪いこと」というか。
法的に最も悪いとされる行為は、「犯罪」といわれますね。
いろいろな悪い行為の中でも、特に悪いものとして厳格に禁止されているものは、法律によって、違反者に対するペナルティとして刑罰が用意されています。
刑罰法規(刑法)により、違反に対する刑罰を伴って禁止された違法行為(の類型)を「犯罪」といいます(厳密な定義はひとまず無視します)。
ところで、一般的に「悪いこと」として理解されている犯罪の本質とは何なのか。
犯罪行為が処罰されるのは、本質的には何が悪いからなのか。
ここに、理論的対立が生じます。

例えば、「人を殺すつもりで、人をナイフで刺した」という場合、これを「犯罪」として禁止する理由は何か。
ここで、行為者の主観面を重視すれば、人を殺そうとするその危険な性格が悪いと考えることになります。
そして、人を殺す行為は、その人の悪い性格の表れといえますから、悪い性格が表れたから処罰するのだ、ということになります。
このように、行為者の主観面(悪い性格)を重視する犯罪理論を「主観主義」といいます。
また、違法評価の対象は、これは悪い性格を持った「行為者」だと考えるわけですから、「行為者主義」ともいいます。
主観主義に基づいて法律を作るとすれば、例えば、人を殺すような危険な性格が処罰されるべきなのですから、極論すれば、実際に相手が死んでも死ななくてもその違法評価に変わりはなく、具体的に危険な行為に着手するかどうかも関係ありません。

他方、行為者がどういう性格なのかではなく、行為者が何をしたか、どういう結果が生じたか、という客観面が重要であるという考え方もできます。
どんな危険思想の持主であっても、実際に何らかの危険な行為に出ないかぎり、取締りの対象にすべきではない。
このように、行為の客観面を重視する犯罪理論を客観主義といいます。
客観主義の犯罪理論のもとでは、違法評価の対象は、悪い性格を持った「行為者」ではなく、悪い「行為」なので、行為者主義に対して「行為主義」ともいいます。


ちなみに、ややこしいのですが、「行為主義」は、刑法の基本原則のひとつとして挙げられることがあります。
そこでいう「行為主義」は、犯罪として処罰の対象となるのは人の行為であるという原則です。
行為者主義の対義語としての行為主義とは、少し次元が異なる話になるので、文脈をよく読んで理解しないと混乱するかもしれませんね。
主観主義のもとでも、犯罪の成立には悪い性格の徴表(外部的な表れ)として「行為」を要求するので、その意味での行為主義は、理論の対立を超えた原則であるということができるかもしれません。
・・・まあ、この辺はあまり深く立ち入らないでおきましょう。

さて、実際のところ、何を重視して犯罪の本質が把握されているのでしょうか。
明治時代に成立した現行刑法は、主観主義の影響を強く受けて成立しています。
代表的なところでは、未遂犯であっても必ず刑が減軽されるわけではなく、「減軽することができる」という規定になっているのは、主観主義の影響であるとされます。
(ただし、すべての未遂が犯罪ではないので、その意味では純粋に主観主義であるわけではありません)
戦前から戦後にかけて、日本の犯罪理論では、戦後、主観主義が有力でした。
しかし、主観主義は、処罰範囲を過度に(無制限に)拡大する危険性を伴っています。
そこで、現在の日本の刑法理論の主流は、客観主義となっています。
そのうえで、客観主義の中で、客観面の何を重視するか、という点に議論が移っています。

したがって日本では、どんなに性格が悪くても、実際の行いが良ければ、法的には犯罪扱いされません。
逆に、どんなに「根はいいヤツ」であっても、実際の行いが悪ければ(それが犯罪に該当すれば)、処罰されます。

結論的には、当然っぽいことをいってますけど、ここで、「日本の犯罪理論は行為者主義じゃなくて行為主義だから」とかそんなことを付け加えると、何となく法律知ってる風の話ができます。
では、今日はこの辺で。

2016年4月21日木曜日

善と偽善とそれ以外

司法書士の岡川です。

前回、熊本とは関係なく書き連ねるとか書いておきながら、ちょっとだけ地震と関係あるネタを。
思いついたときに書いておかないと、慢性的ネタ枯渇ブログですからね。


大きな災害が起こると、楽しいことを自粛するしないの話のほか、善と偽善の議論も出ますね。

有名人が何か大きな支援活動をすると「偽善」だと批判されることがあります。

あるいは、その批判が来る前に先回りして「やらない善より、やる偽善」という、誰が言い出したか知らないけれど有名なフレーズを引用して、「偽善ですが何か?」という保険を掛ける手法も、お約束となりつつあります。

善と偽善に関して哲学的な定義があるのかないのか、私は専門外なので寡聞にして存じ上げないわけですが、いわゆる「偽善」といわれるものの中にも色々あって、その中には偽善ですらないものがある。
そういう「偽善ですらない行為」が批判されるんだろうな、というのが私の考えるところです。


例えば、最近、高須クリニックのYes!高須先生(あれ?そんな名前じゃなかったかな)が、熊本で私財をばら撒くと宣言して自前でヘリを調達して救援物資を積み込んで救援に向かいました。
Yes!先生は、これまでも、災害が起こると1000万円とかぽーんと寄付したりしてます。

なかなか通常人にはマネできることではありません(主に資力的な意味で)。


これらの行為、真に心から「被災地の力になりたい」という動機で行われていた場合、これはまさしく善行であると評価されるでしょう。
他方で、これが高須先生の名誉欲であったり、クリニックの宣伝のために行われたとすれば、これが偽善ということになると思います。

辞書的な意味では、表面上善行であっても内心が伴っていないというのを偽善というらしいですからね。


で、実際の高須先生の本心なんてものは、他人にはわからないもので、本当の善行なのか偽善なのかを客観的に判断することは難しい。
ただ客観的にみれば、少なくともその行為で助かる人がいて、その動機がどうであったかというのは実はあまり関係がない。

動機がどうであっても(=善であっても偽善であっても)、同じだけの利益を享受する人がいるのだから、それ自体は「良いこと」と評価すればいいんだと思います。

そういう意味で、「やらない善より、やる偽善」というフレーズは、妥当するわけですね。

偽善と言われる行為であっても、その行為自体は社会的に有益ならそれでよし。
偽善を行う人に対する評価、つまり、その人が善い人か悪い人か、好きか嫌いか、信頼できるかできないか、お友達になりたいかなりたくないかってのとは、切り離して考えればいいと思います。


他方で、「偽善ですらない行為」の代表が、「千羽鶴(に代表される被災地でゴミにしかならない物)を被災地に届ける」といった行為なんだろうなと思うわけです。

水や食料が不足し、寝るところにも困っている被災者にとって、千羽鶴というのは何の役にも立たないどころか、その仕分けに人員を取られるわ、結局ゴミになるから処分費がかかるわで、迷惑な贈り物の代表となっています。
「第二の災害」とかいうらしいですね。

そのため、以前から、災害のあるたびに「やめてくれ」という声が上がっているのですが、それでも送る人がいます。

偽善というのは、表面上は善行である(ただし内心が伴っていない)から偽善なわけで、迷惑をかけている時点で、これは偽善ですらない。
そうすると表面上も善行でないこれは何というんですかね。
独善とか自己満足といったところになるでしょうか。


千羽鶴を送り届ける行為が、本当に「被災者の力になりたい」という善意から行われたことであったとしても、客観的に迷惑な行為であれば、それは善行でも偽善でもない。

偽善ですらなければ「やらない善より、やる偽善」なんていうのも妥当しないわけです。
偽善ですらない行為は、やらない方が良い。


もちろん、ある程度落ち着いたところで、さあ復興に向けて頑張ろう、という段階になってこれを励ます為に送る分には、良いのかもしれません。
しかし、少なくともそうでない段階で送るのは、何の役にも立たないどころか迷惑をかける。

支援というのは、支援する側の思いでやるものじゃなくて、支援される側のニーズに応えるべきものです(災害支援だけでなく、あらゆる支援はそういうものです)。


本当に復興を願うなら、千羽鶴を作る折り紙を買うお金でくまモングッズの1つや2つ買った方が被災地のためになると思います。
まあ、くまモングッズの利益がどこまで熊本に還元されるのかについては、私はくまモンの権利関係について専門外なのでよくわかりませんが。


では、今日はこの辺で。

2016年4月18日月曜日

なにも投稿しないのもアレなので・・・

司法書士の岡川です。

ちょいとブログがご無沙汰していたので、さあ、何か書こう!と思った矢先に、熊本が大変なことになっています。

熊本には、昨年、少しだけお邪魔したところだったのですが、ついでに観光に行ったところ(熊本城)とか、行こうと思ったけど日程的に断念したところ(阿蘇神社)などが軒並み被災しているようです。

熊本に知人(同業者)が数人いますが、無事だったようです。


こういう大規模災害が起こった時は、バラエティ番組とかを自粛すべきとかすべきじゃないとか議論が巻き起こりますが、当ブログは、熊本について何か情報を持ってるわけでも、熊本に縁があるわけでもありませんので、特に熊本の震災を意識することなく、いつも通り書き連ねていく予定です。


では、今日はこの辺で。

2016年4月7日木曜日

「供託」入門

司法書士の岡川です

あまり知られていないと思いますが、司法書士のお仕事には、供託手続の代理というものがあります。
供託というのは、前回の記事でもご紹介した法務局における手続きのひとつなのですが、一般の方にはあまり馴染みがないかもしれません。

ちょうど、LINE株式会社が供託金逃れをして資金決済法違反で捜査されているといったニュースが出ておりますので、この供託について取り上げてみたいと思います。

供託というのは、色々な目的のために、金銭等の財産を供託所等に提出して管理を委ねる制度です。
供託に関する基本的な事項は、「供託法」という明治32年に制定された法律(今では珍しくなった漢字カタカナ交じりの法律)に定められています。

供託所というのは、国家機関になるのですが、供託所という名の役所があるわけではありません。
供託法により、法務局(地方法務局や支局等も含む)が金銭供託の供託所と規定されています。
これは、「登記所」という名の役所がなくて、法務局(地方法務局や支局等も含む)が登記所とされているのと同じですね。

(なお、法律によっては金銭や有価証券以外の物品を供託することができる場合があるのですが、その場合は、倉庫業者や銀行が供託事務を取り扱うことになります。現物を法務局に持ち込まれても困りますからね)


基本的には、「一定の目的のために法務局に金銭を提出する制度」くらいに考えていただければよいと思います。

では、何のために法務局に金を提出するのか。
これには「こんな時に供託が使えるよ」といった規定が色々な法律に規定されているのですが、分類してみると次のような感じになります。

1.弁済供託

何らかの理由で、債権者に弁済ができない場合があります。
例えば、債権者との間でトラブルがあって受け取りを拒否されたり、そもそも債権者が誰か不明確な場合等です。
家賃の増額や減額で家主ともめているような場合に使われます。
供託をすれば、実際に債権者にお金が渡っていなくても、法律上は弁済をしたものとして扱われます(つまり、債務不履行責任を問われない)。

2.執行供託

民事執行手続等において、供託が利用されることがあります。
例えば、債権者が、債務者の有する給与債権を差押えた場合、債務者の勤める会社(この立場を「第三債務者」といいます)は、差し押さえられた給与を債務者に支払うことが禁止されます。
この場合、法律に則って直接債権者に支払うこともできるのですが、その代わりに供託することもできます。
会社が、債権者と債務者のもめ事に関与したくないと思った場合、「お金は法務局に預けるから後はそっちでやっといて」ということができます。
他にも、差押えが競合したような場合にも供託が使われますね。

3.保証供託(担保供託)

相手に損害を与えるかもしれないような行為、活動を行う場合に、あらかじめ担保として供託金を納めておくのが保証供託です。
例えば、宅建業や割賦販売業、旅行業などを営む場合、数百万~数千万円保証金を供託しなければいけません。
また、裁判手続の中で保証金を供託しなければならない場合もあります。
民事保全手続などで必要になりますね(仮差押えしたけどそもそも権利がなかったような場合、相手に損害が出るため)。
LINEのニュースで出ていたのも、これですね。

4.没取供託

選挙に出馬するときに納める供託金が典型例です。
立候補する際に供託し、一定の得票があれば戻ってきますが、そうでなければ没収されます。
泡沫候補の乱立を防ぐための制度ですね。

5.保管供託

財産の散逸を防ぐために金銭を供託するものです。
一般市民にはほとんど関係ありませんが、銀行の業績が悪化したような場合、監督官庁の命令によって一定の金額を供託することがあります。


供託は、義務の場合(供託しなければならない)もあれば、権利の場合(供託することができる)もあります。
しかし、法務局は銀行ではありませんので、何の理由もなくお金を持って行って預かってもらうようなことはできません。
供託をするには、供託をする法律上の理由(供託原因)が必要なのです。


そう頻繁に利用する制度でもないと思いますが、ぜひ覚えておいてくださいね。

では、今日はこの辺で。

2016年4月4日月曜日

司法書士と「行政」の関わり

司法書士の岡川です。

司法書士というのは、文字通り「司法」に関わる資格です、というのは前回書いたとおりです。
もう少し詳しくいうと、司法機関である裁判所での手続を専門とする資格です。

司法機関に提出する書類を作成するから、「司法」書士という名前なのですね。



とはいうものの、司法書士の業務を定めた司法書士法3条1項には、まず「登記又は供託に関する手続について代理すること。」が1号に掲げられています。
登記供託は、裁判所ではなく法務局という官庁で行われる手続きです。

さらに2号と3号も法務局の手続き(法務局提出書類の作成や、登記・供託に関する審査請求手続)となっています。

では法務局というのは、司法機関かというとそうではなく、法務省の地方支分部局です。
地方支分部局というのは、中央省庁の地方組織で、例えば国税庁における国税局とか、国土交通省における地方運輸局がこれに当たります。

法務省というのは、いうまでもなく行政機関ですから、法務局も行政機関です。
つまり法務局が所管している登記や供託も行政手続ということになります。


そして、最初に書いたとおり、司法書士の業務として真っ先に上げられるのは登記業務であり、現実的にも司法書士の受任する事件の大部分を登記業務が占めています。

つまり、「司法」書士といいながら、実は行政手続のほうがメインの資格だったりします。

まあ私個人の仕事の割合でいうと、どっちかというと裁判所絡みの書類の方が多いのですが、司法書士業界全体でいうと、圧倒的に法務局での手続きが多いです。


何でこういうことになっているかを理解するには少し歴史を紐解く必要があります。

まず、戦前に裁判所構成法という法律がありまして、登記手続は、区裁判所という裁判所の所管事務だったのです(裁判所構成法15条)。
つまり、もともと司法書士の登記業務は、裁判所に提出する書類の作成業務として確立されてたのですね。

それから供託ですが、供託制度ができた当初は大蔵省(今の財務省)管轄でしたが、大正10年の改正により司法省(現在の法務省)の下部組織である「供託局」に移管されました。
「供託局」は、戦後に「司法事務局」に改組されて、登記事務も裁判所から司法事務局に移管されます。

その司法省が最終的には法務省になり、司法事務局も最終的に現在の法務局になりました。


こういう官庁の再編がなされた後の昭和25年、司法書士法が全面改正されて「裁判所、検察庁又は法務局若しくは地方法務局に提出する書類を代つて作成する」ことを業とすると定められました。

全面改正当時は、まだ「法務局」より「裁判所」の方が前に書かれていたようですね。


ここでもうひとつ、あまり目立たないですが司法書士法には「検察庁」というのも出てきます。
検察庁に提出する書類の作成も、司法書士の業務です(現行司法書士法3条1項4号でも、「裁判所」と「検察庁」が並列されています)。
例えば、告訴状とか告発状の作成というのが検察庁に提出する書類ですね。


検察庁は、皆さんご存知の通り、犯罪者(の疑いがある人)を起訴する検察官が所属しており、刑事司法手続の一翼を担っている役所ですが、これまた裁判所ではなく法務省の下部組織です。

つまり、検察庁は、司法機関ではなく行政機関です。
となると、厳密にいえば「検察庁に提出する書類の作成」というのも行政に対する手続だということになりますね。


こちらも歴史的背景があるのですが、法務局の方とはちょっと違います。
実は旧司法書士法(大正8年に司法代書人法として制定)の時点で既に「裁判所及検事局ニ提出スヘキ書類ノ作製」という規定になっていまして、検事局というのが今の検察庁にあたります。

当時の検事局というのは、裁判所の下部組織ではないものの裁判所に「附置」されているという、何とも微妙な立場にありました(裁判所構成法6条)。
その辺の事情が、司法書士法の規定にも影響したのでしょうね。


そんな具合で、「司法」書士といっても、行政官庁に提出する書類の作成もしているのです、というお話でした。

では、今日はこの辺で。