2015年4月22日水曜日

建物明渡事件の実務と書式〔第2版〕

司法書士の岡川です。

今日は宣伝です。

本日、民事法研究会から大阪青年司法書士会編『建物明渡事件の実務と書式〔第2版〕』が出版されました。



本書の初版は、平成18年に出版されたのですが、「建物明渡事件」とのタイトルですが、実は裁判業務全般に使える実務参考書でして、「これ一冊あれば大抵のことは何とかなる」ような書籍です。
これが司法書士だけでなく、弁護士や法律事務所の事務員などにも好評で、今までに重刷を繰り返しておりました。

そしてこのたび、約1年かけて本書の全面的な改訂を行い、第2版が出版されることになったわけです。

第2版では、初版の特長はそのままに、4章構成を5章構成にして(「裁判外の解決」という章を新設して、和解や調停・ADR等を詳解)大幅加筆したほか、書式の追加と改訂、説明の不正確な部分の修正、説明不足の部分を補足、用語や表現の統一、初版刊行後の法改正や判例への対応を行いました。


なんでこんなことを私が紹介しているかというと、私がこの改訂作業の責任者をやったからです。

というわけで、執筆者一覧の末席に加えていただき、初版の主要執筆者は5名でしたが、第2版は私が加わって6名となっております。
ついでに、第2版「はしがき」も書かせていただきました。
みなさん、「はしがき」だけでも読んでください。


私が責任者で執筆もしましたが、青年会の編著であるので、多くの会員(それこそ、合格したての新人から、日司連の副会長まで幅広い層の会員)の協力によって作られています。

1年かけて色々議論・検討し、図書館に行ったり、裁判所に問い合わせたり、夜を徹して校正作業を行い、ついに完成したものです。

ぜひ本屋で手に取り、そのままレジにお進みいただき、代金をお支払いの上、家または事務所にお持ち帰りいただきたいと思います。

民事法研究会のWEBサイトでも購入できます。

http://www.minjiho.com/shopdetail/000000000783/

よろしくお願いします。

2015年4月21日火曜日

仮処分

司法書士の岡川です。

相手(債務者)が任意の履行をしない場合に債権者が自己の権利の実現を図るには、一般的には、訴えを提起し、勝訴判決を得て、最終的に強制執行手続による必要があります。

ところが、訴訟というのは、訴えを提起してから結論が出るまで時間がかかるものです。
なんせ、紛争が起こっているところで裁判所が公権的に白黒つけるのですから、慎重に審理を重ねる必要があるからです。
判決によって権利を失ったり、義務を認定されたりする側からすれば、慎重な審理を受けるのは当然のことです。

とはいえ、何か月も(場合によっては何年も)訴訟で争わなければ全く手が出せないとなれば、その間に手遅れになることもあります。

例えば、金銭請求であれば、差し押さえるべき財産(例えば預金口座等)の存在を把握していても、争っているうちに債務者がその財産を処分してしまうかもしれません。
あるいは、不法占有者に対して建物の明渡しを請求しているのに、いつの間にか別の第三者に占有が移転されると、またその第三者に対して請求をし直さなければなりません。

これでは、やったもん勝ちを許してしまいますし、債権者権利者にとっては具合が悪い。

そこで、判決を求めるために訴える民事訴訟手続の前段階として、「民事保全」という手続があります。
文字通り民事上の権利関係を「保全」(保護して安全にすること)するための手続です。

民事保全には、大きく分けて「仮差押」と「仮処分」に分かれます。

仮差押は、金銭債権を保全するため、債務者の財産を仮に差し押さえる方法です。
あくまで「仮」なので、差し押さえた財産を売り払ったりすることはできませんが、債務者も勝手に処分することができなくなります。
仮処分について詳しくは以前書いたことがありますので、そちらを参照(→「仮差押」)。

同じように「仮処分」も、「仮」に一定の措置を行う保全処分です。
例えば「占有移転禁止の仮処分」であれば、係争物の占有を(結論が出るまで)第三者に移転できなくするものですし、処分禁止の仮処分であれば、権利関係が確定するまで処分(売却等)を禁止するものです。

権利関係に争いがある場合に現状を変更されると(あるいは現状を維持されると)損害が生じるようなときに適当な措置をとっておくものなので、抵当権実行禁止の仮処分や株主総会開催禁止の仮処分、出版差止めの仮処分など、仮処分には多種多様なものがあります。

仮処分は、あくまでも暫定的な措置なので、後で最終結論がひっくり返ることもあります。
その場合、仮処分を受けた側が損害を被るかもしれません。

したがって、仮処分を申し立てる場合は、一定の担保(保証金)を提供しなければならないのが一般的です。
もし最終結論が覆った場合は、そこから相手の損害を賠償することになります。


暫定的に必要な措置をとれる便利な制度である反面、利用にはお金がかかるのが仮処分です。
仮処分のご利用は計画的に。

では、今日はこの辺で。

2015年4月20日月曜日

「執行証書」の話

司法書士の岡川です。

債務名義の話をしたので「執行証書」についても、もう少し詳しく書いておきましょう。

公証人法等の法令に基づいて公証人が作成する文書を「公正証書」といいます。

(「公正証書」は多義的なので、こちらの記事も参照→「公正証書とは?」)

これに対して、私人が(当事者が署名や押印して)作成する文書を私署証書といいます。

法的な文書、例えば契約書を作成するとき、多くは私署証書で作成されます。
法令により、公正証書を作成しなければならないと規定されている契約類型もあります(例えば、任意後見契約は公正証書でしなければならない)が、契約の形式は、基本的には自由(契約自由の原則)なので、普通は私署証書で十分です。

ただ、特別な公務員である公証人が、当事者から事情を聴取したうえで作成する公正証書は、一般的に私署証書より信憑性(証拠価値)が高いと考えられるので、確実な証拠を残しておきたい場合などに公正証書が作成されます。


公正証書は、証拠価値の高い文書ではありますが、真正に成立したものであれば、私署証書だろうと公正証書だろうと法的な効力としては変わりません。

ただし、公正証書には特殊な使い方があり、ただの証拠以上の効力を持たせることができます。

すなわち、公正証書に、「債務者が債務の履行を遅滞したときは、直ちに強制執行に服する」といった文言を入れておけば、この公正証書自体が債務名義となるのです。
このような文言(「執行認諾文言」)の入った公正証書を、「執行証書」といいます。

つまり、執行証書に基づいて強制執行をすることができるということです。


債務名義の多くは、争いが起こった後で、訴訟とか調停とかを経て、裁判所が作成するもの(判決や和解調書、調停調書など)です。
しかし、執行証書は、紛争が生じる前に(生じた後でも構いませんが)裁判所を通すことなく債務名義を取得することができるのです。

これが公正証書の最大のメリットといっても良いかもしれません。


ただし、執行証書として債務名義となるのは、金銭請求等に限ります。
例えば、建物の明渡しなどは、公正証書に基づいて強制執行をすることはできません。

契約の段階で、確実に強制執行の手段を確保しておきたい債権者は、執行証書の作成(公正証書の最後に執行認諾文言を挿入する)を検討してみて下さい。
逆に、債務者側としては、公正証書の原案にそういった文言が入っていたら、それを除くように交渉することも検討しましょう。

では、今日はこの辺で。

2015年4月16日木曜日

「債務名義」の話

司法書士の岡川です。

おそらく聞き慣れない(見慣れない)単語だと思いますが、今日は、民事手続で重要な概念である「債務名義」について書こうと思います。

近代的な法治国家である日本では、正当な権利を有しているからといって、私人が勝手に実力で権利を実現させることは許されません。
例えば、貸したお金を返してもらえないからといって、相手の財布を奪って勝手にお金を抜いたら犯罪となります。
これを、自力救済禁止の原則といいます。


実力行使が禁止されているなら、私たちはどうやって権利を実現すればよいかというと、最も典型的には裁判所に訴えを提起することです。

もちろん、裁判所に訴えたら裁判官がイキナリ相手の財布に手を突っ込んでお金を奪い返してくれるわけではなく、裁判所では双方の主張と証拠に基づいて審理が行われます。
審理が終われば、裁判所が最終的な判断としての判決を言い渡すことになります。

つまり、裁判に勝てば、裁判所から「金払え」という「判決」をもらうことができます。


金を貸した側としては、「判決」ではなく「お金」が欲しいのですが、裁判所はお金をくれません。
くれるのは、「判決正本」という紙きれだけです。


お金がほしいときに、紙きれなんぞ貰って何が嬉しいかというと、この紙きれは、ただの紙切れではないからです。
これは、「実力行使をしても良い」という「裁判所のお墨付き」なのです(もちろん、判決が確定しないといけませんが)。

安っぽい紙に印刷されてますけど、これが非常に強い効力を有する紙きれなのです。
葵の葉っぱのイラストが入った薬箱(黄色い服のお爺さんがよく持ってるやつ)なんかよりよっぽど強力です。


裁判所のお墨付きさえもらえれば、合法的に実力行使をすることができます。

もちろん、「実力行使」といっても、そこは法治国家ですから、何をやってもいいわけではなく、一定の法律上の手続(強制執行手続)に基づいて行う必要があります。
そういう「法律に基づいて」という当然の制限はありますが、とにかく「実力行使」が可能になるので、強制的に相手の銀行口座から預金を引き出したり相手の家を売り払ったりして、そこから債権を回収することができます。


このように、公的機関(基本的には裁判所)が発行する「実力行使しても良い」というお墨付きのことを「債務名義」といいます。

典型的なのが判決ですが、判決のほかに、裁判上の和解が成立したときに作成される「和解調書」や、調停が成立した時に作成される「調停調書」なんかも債務名義の一種です。
つまり、個人的に作った「和解契約書」ではなく、裁判所で作ってもらった「和解調書」を持っていれば、相手が約束を破れば、それに基づいて強制執行を行うことも可能だということです。

裁判所が作成するもののほか、公証人が作成する「執行証書」という債務名義もあります。


任意に約束を守ってもらえなければ実力行使しかありませんから、合法的にそれを行おうとすれば、何らかの債務名義が必要です。
その債務名義をとる手続が裁判手続なのです。

では、今日はこの辺で。

2015年4月9日木曜日

小学生がボール遊びをしていたらバイクが転倒して親が5000万円請求された事件

司法書士の岡川です。

もうだいぶ前のニュースなのですが、2004年にこんな事故がありました。

当時小学生だった男性が学校のグラウンドでサッカーをしていたところ、ゴールに向かって蹴ったボールが道路に飛び出し、そこに通りかかったバイクがボールを避けようとして転倒し、運転していた男性が死亡した、というものです。

この事件で、2011年に大阪地裁で、男性の両親に対する約1500万円(請求額は約5000万円)の損害賠償請求を認める判決が出て話題になりました。

人が1人亡くなっていることを考えれば、金額的には決して高い賠償額ではありませんが、

  • 校庭にはサッカーのゴールがあり、男性はゴールに向かってボールを蹴っただけであること(特に危険な遊び方をしていたわけではない)
  • バイクで転倒して死亡した男性が、当時87歳という高齢であったこと(むしろその年齢でバイクに乗っていた被害者側の過失が大きいのではないか)
  • 死亡の直接の原因は、事故後発症した認知症による誤嚥性肺炎であり、事故から1年以上経過していたこと(因果関係がないのではないか)
  • 損害賠償を命じられたのが男性の両親であったこと(この状況で両親が責任を負うのは酷ではないか)

などの理由により、結論に批判が出ていました。

当然ながら、男性の両親としては納得できるものではなく、控訴されたのですが、第二審の大阪高裁でも、賠償額は約1100万円に減額されたものの、結論的には両親の賠償責任が認められました。

自分の子供がサッカーゴールに向かってボールを蹴ったら、バイクに乗った老人が肺炎で死亡する・・・なんてことを予見できるはずもなく、端から見ててもなかなか理不尽な結論です。


小学5年生くらいの子は、他人に損害賠償を与えても、責任能力がないために損害賠償責任を負いません(712条)。
ただ、それだと被害者は「やられ損」になってしまって被害者に酷であるため、民法は、被害者救済のために、子を監督する義務を負う親権者等に特別な賠償責任を課しています(714条)。

この監督義務者責任は、どんな場合も常に負うわけではなく(それだと逆に監督義務者に酷な結果となります)、「監督義務者がその義務を怠らなかったとき、又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったとき」は、免責されることになっています。

この辺の監督義務者責任については過去にも何度か書いていますので、そちらも参照してください。

参照1→「子の自転車事故で、賠償金は母親が支払うのか?
参照2→「未成年後見人の損害賠償責任
参照3→「自己責任の原則


事件は上告され、最高裁の判断が待たれることになりました。

で、その上告審の結論が出たようです。

最高裁判所は、二審判決を破棄し、両親に対する損害賠償請求を棄却する判決を言い渡しました。

破棄自判というやつですね。

正確にはどう判示したのかは判決文を見ないとわかりませんが、報道によると「両親は日頃から通常のしつけをしており、サッカーのような通常、人に危険が及ぶとはみられない行為については特別の事情が認められない限り監督責任を負わない」という趣旨の判決であったようです。


(追記)判決の原文は次の通りです。
 「親権者の直接的な監視下にない子の行動についての日頃の指導監督は,ある程度一般的なものとならざるを得ないから,通常は人身に危険が及ぶものとはみられない行為によってたまたま人身に損害を生じさせた場合は,当該行為について具体的に予見可能であるなど特別の事情が認められない限り,子に対する監督義務を尽くしていなかったとすべきではない。」


まあ、当然といえば当然ではあります。
監督義務者だからといって何でもかんでも損害賠償を認めていれば、714条但書で親の責任に制限をかけた意味がなくなってしまいます。


事故によって認知症を発症することも無いことではないですし、認知症の方が誤嚥することもありえますし、そこから肺炎になるのもおかしくはないですし、高齢者の誤嚥性肺炎は死亡の危険が高い。


被害者遺族側からみれば、男性の行為が(かなり遠いとはいえ)死亡の原因のひとつとなっているわけですし、男性に責任能力が(当時)なかったのであれば両親に責任を問いたいという気持ちもわかります。
ただ、この事件は、さすがに両親の責任を問うのは酷であった思います。


本筋とは少し外れますが、やはり、高齢者の運転というのは非常に危険が高い行為です。
加害者となることもあれば、今回のようにちょっとしたことで死亡事故の被害者となる可能性もあります。

高齢者の交通事故は増えています。
皆さんのご両親や祖父母も事故に巻き込まれないよう、気を付けてくださいね。

では、今日はこの辺で。

2015年4月8日水曜日

論理解釈について

司法書士の岡川です。

法解釈の手法の話の続きです。
今日は論理解釈について。

法律は、何らかの趣旨や目的の下に作られたものであり、また、法全体として論理的体系として存在しています。
条文に書かれた言葉の意味に幅がある場合に、その法律の趣旨や目的から外れた意味として捉えて適用すべきではないし、ある条文と別の条文が矛盾するようでもいけません。

そこで、条文に書かれた言葉の論理的意義を踏まえて内容を確定させることが必要となります。

これを文理解釈に対し、「論理解釈」といいます。


論理解釈は、具体的な手法や「論理」の中身(捉え方)などによって、さまざまな分類がなされています。


まず、「拡張解釈」(拡大解釈)と「縮小解釈」。

文言の「通常の意味」より広げて解釈するのを拡張解釈、逆に狭めて解釈するのを縮小解釈といいます。

例えば「馬は大阪府知事選の選挙権を有する」という法律があったとします。

ここでいう「馬」に「ロバとかシマウマとかも含まれる」と考えるのであれば、それは拡張解釈だといえます。
逆に、馬は馬でも「子馬やポニーは含まない」と考えるとすれば、それは縮小解釈となります。

「結局のところ、法律用語の『馬』はどこまで含むのか?」という疑問は無意味で、それぞれの条文でなぜ「馬」と書かれているのか、その論理的意義を考えなければなりません。
その結果、ある法律と別の法律で「馬」の意味が異なることもあり得るのです。


「類推解釈」と「反対解釈」というのもあります。

いずれも、ある事情について適用できる規定が存在しない場合に用いられる手法です。

法律に何も書かれていない場合、類似した事実について書かれた条文から類推して同様の結論を導くか、あるいは、「書かれていない」ことを重視して、その条文の反対の結論を導くかの2とおりの結論が考えられます。

例えば、牛が大阪府知事選の選挙権を主張したとしましょう(とある法律によって馬は選挙権を有しています)。

大阪府知事選との関連においては馬も牛も同じと考え、馬についての条文を牛についても類推し、同様の結論(牛も選挙権を有する)を導く手法を「類推解釈」といいます。

逆に、「馬は」選挙権を有すると書いてあって、牛については何も書かれていない以上、牛は除外されるのだと考えれば、反対の結論(牛には選挙権がない)が導かれます。
これを「反対解釈」といいます。


単純に考えれば、Aについて規定されていて、Bについて規定されていなければ、Bは規定の範囲外と考える(反対解釈)のが当然かもしれません。
しかし、法律の世界では、類推解釈によって法の規定がないところに別の条文が適用(類推適用)されることは、決して珍しいことではないのです。


論理解釈と反対解釈のどちらが正しいかは、文言から単純に決まるものではありません。
その規定の趣旨や法体系などを勘案して解釈することになります。

ただし、これまでに何度も出てきましたが、刑罰法規においては類推解釈は認められておりません。
罪刑法定主義の派生原理のひとつである「類推解釈の禁止」です。


ちなみに、類推解釈のうち、類推するのが当然といえるものは特に「勿論解釈」といわれます。


「論理」の中身、何を基準に解釈するかという点に着目して分類することもできます。

ある規定の立法者がどのように考えていたのかということを基準にして解釈する手法を「歴史的解釈」といいます。
その規定の置かれている場所や他の規定との相互関係を基準にして解釈する手法を「体系的解釈」といいます。
その規定の立法目的や趣旨に照らし合わせて解釈する手法を「目的論的解釈」といいます。

もちろん、「これは何解釈」とスパッとキレイに分けられるものではなく、色々な事情を勘案して(その中で何を重視するかが異なる)論理的意義を確定させていくことになります。


解釈手法については、分類の仕方がは論者によって区々ですので、これとは別の説明がされることもあります。

重要なのは、「これを何解釈というか」ということではなく、様々な基準に照らして論理的に意味内容を確定させる作業が、法律の理解には不可欠だということです。

文言の意味を時には広げ、時には狭める。
その作業(解釈)をするには、その制度の趣旨や目的、現在の社会情勢や立法時の背景を知らなければなりませんし、他の法律や場合によっては外国の法律の知識も必要です。

条文をただただ日本語の知識に従って読んでいても、その法律、条文の意味するところは理解できません。

とはいえ、あくまでベースは条文にあります。

独善的な思考に陥って、条文の文言からかけ離れた解釈にならないように注意しないといけないですね。


では、今日はこの辺で。

参照記事→「日本国憲法の条文だけを読むことの意義

2015年4月3日金曜日

法解釈の手法

司法書士の岡川です。

新学期が始まりました。

この春から法学部に入学して初めて法律を学ぶという人もたくさんいるでしょう。

法律を学ぶというのは、法律の条文を丸暗記することではありません。
司法書士や弁護士などの法律実務家も、法学部教授などの法学者も、基本的には条文を暗記したりはしません。

もちろん、よく見る条文などは、ある程度勝手に覚えることはありますが、あえて覚えようと思って覚えることはまずありません。


法律は、社会のルールですから、実際の事案にきちんと適用できなければ意味がありません。

条文に書かれた法律の内容は、抽象的であり、漠然としています。
その意味内容を確定する作業を「法解釈」といいます。

この法解釈について学ぶ学問が法解釈学であり、一般的に法律を学ぶといった場合、多くは法解釈学を学ぶことになります(法学には、法解釈学のほかにも色々なものがありますが、これは後日)。

さて、その法解釈ですが、色々な手法があります。

法解釈の手法を知らなければ、意味内容を確定するといっても何をどう考えればよいか迷うことになりますし、誤った(しばしば独善的な)解釈に陥ることになりかねません。
よくネット上で見かけるトンデモ法理論は、法解釈というものを理解していないことから生じていることがあります。

法律の世界へ足を踏み入れた皆さんは、法解釈の手法を理解することが重要です。


解釈の手法には、大きく分けて文理解釈と論理解釈があります。

文理解釈とは、条文の内容を、文言の通常の日本語の意味に従って解釈する方法をいいます。
つまり、書かれた文章から普通に読み取れるとおりに解釈することです。

条文に「馬」と書いてあれば、あの「馬」であって、白黒模様で「モ~」と鳴く動物は含みません。

常識ですね。

このように、常識的に読み取れる「そのままの意味」で理解するのが文理解釈です。
文理解釈は、ある程度の常識と日本語の知識のある人であれば難しくないでしょう。


しかし、常に文理解釈をしていれば全て解決すればよいのかというと、必ずしもそうではありません。
前後の文脈や、他の条文や法体系全体との整合性などを考えると、「文言そのままの意味」では不合理であったりおかしな結論になることがあります。

つまり、単純に「条文の文言そのまま」の意味で理解するのではなく、論理的に考えて、もう少し違った適切・妥当な意味に捉える方法を、論理解釈といいます。

論理解釈においては、条文に「馬」と書かれてあっても、場合によっては白黒模様で「モ~」と鳴く動物がそこに含まれる可能性も出てきます。


このような論理解釈は、特別な例ではなく、あらゆる場面で普通に行われるものです。
そのため、法解釈では、日本語の「普通の意味」と多かれ少なかれズレが生じることも珍しくありません。

これは、英単語とか漢字の意味を暗記していた義務教育や高校レベルでの学習内容と大きく異なるところです。
高校までの国語のテストで、四字熟語の意味が問われているときに、辞書に載っている意味と異なる内容を書いたら不正解となりますが、法学では必ずしも不正解とはいえない。
したがって、日本語の意味を知っていても、必ずしも法律の内容を正しく理解できません。

ここが法解釈の難しいところです。


そうすると、どう「論理的」に解釈するのか、ということが問題となってきます。


というわけで、次回は、論理解釈についてもう少し詳しく書こうと思います。

では、今日はこの辺で。