2014年4月10日木曜日

違法性の意識

司法書士の岡川です。

最近話題の悪意があるとかないとかの話で思い出したので、「違法性の意識」の話でも。
ちょっと専門的な話になりますが、これを知っていると、犯罪報道をより深く理解できるようになるかもしれません(ならないかもしれません)。

「違法性の意識」とは、刑法における概念なのですが、「法律上許されないことであるという意識」のことです。
この「違法性の意識」の有無が犯罪の成立に影響を与えるのか、という問題があります。

具体的には、「そんな法律があるとは知らなかった」という場合(法の不知)や、「法律は知っていたが、自分の行為がその法律に当てはまるとは思わなかった」という場合(あてはめの錯誤)に生じる問題です。

この問題については、いくつかの説が分かれています。

1.違法性の意識不要説

「犯罪の成立には違法性の意識は不要である」という説です。
判例は、一応この立場をとっていると考えられています。
もっとも、下級審ではこれと異なる裁判例も多数存在し、また、最高裁も他の説を意識した判決を出したりしているので、まだまだ流動的ではあります。

2.厳格故意説

1の説とは正反対の結論を導く立場で、「故意の成立には違法性の意識が必要である」とする説です。
この説は、「違法性の意識」が故意の要素だと考え、これを欠けば故意が否定されると考えるものです。
要するに「これが違法だとは知らなかった」という主張が認められれば、「故意が無かった」となり、結論的に犯罪(故意犯)が成立しないことになります。
その結論の不当性などから、(有力な学者が採用しているものの)非常に人気のない少数説になっています。
なお、ここでいう「厳格」とは、「厳しい」という意味ではなくて、「首尾一貫した」という意味です。

3.制限故意説

2の説と同じく、故意の要素として考慮するものですが、「故意の成立には違法性の意識の可能性が必要である」とする説です。
つまり、違法性の意識が無くても、故意の成立(=犯罪の成立)に影響は無いが、しかし、違法性の意識の可能性すらない場合は、故意を否定するというものです。
厳格故意説が「首尾一貫した故意説」であるのに対し、その内容を修正した(制限した)故意説というわけです。
これは、結論的にも穏当なもので、伝統的な学説(かつての通説?)なのですが、故意の要素として「可能性」というものを含めることに疑問と批判が集中しておりますね。

4.責任説

2と3が違法性の意識(の可能性)を「故意」という枠組みの中で考えていた「故意説」だったのに対して、「故意」の枠組みを越えて「犯罪の成立には違法性の意識の可能性が必要である」という説です。
すなわち、制限故意説と同じく、「違法性の意識の可能性」を考慮しますが、これを「故意の要素」とはせずに、故意とは別個の、独立した責任要素と考えます。
違法性の意識の可能性を欠いた場合でも故意は問題なく成立するが、責任が否定されるということです。
結論的には、制限故意説とほぼ同じですが、責任説は、過失犯の場合も同じ枠組みで考えることができます。
これが近時の有力説(通説?)です。


あと他にも細かい説は色々分かれているのですが、大まかにはこの4つですね。
そして、見てのとおり、2の厳格故意説という少数説を除けば、「違法性の意識を欠いていても犯罪は成立する」という点で一致します(あとは、「意識できる可能性すらなかった場合に犯罪は成立するか」という点で結論が異なる)。

よく不祥事を起こした偉い人が「違法性を認識していなかった」と言い訳しますが、「違法性の意識が無かった」ということは法律的には全く何のいいわけにもなっていないということが分かりますね。

言い訳したいときは、きちんと事実認識自体を否定しましょう。

では、今日はこの辺で。



この記事が「面白い」「役に立つ」「いいね!」「このネタをパクってしまおう」と思ったら、クリックなどしていただけると励みになります。
↓↓↓↓↓

※ブログの右上に、他のランキングのボタンもあります。それぞれ1日1回クリックできます。

0 件のコメント:

コメントを投稿