2017年6月16日金曜日

債権法改正について(1)(意思能力・行為能力)

司法書士の岡川です。

前回も紹介しましたが、民法の一部を改正する法律、いわゆる債権法改正(もう少し厳密にいうと「民法(債権関係)改正」)が成立しました。
3年以内に施行される予定です。

契約関係の基本的なルールである民法が変わるので、皆さんの生活にも大きな影響があるかもしれません(例えば、法学部の学生生活と法律系資格試験受験生の勉強生活への影響は計り知れない。その他の一般市民の生活への影響は、まぁ、そんなに・・・)。


このブログでも、何回かに分けて重要な改正について紹介&解説していこうと思います。

基本的には、条文を前から順番に追っていきますが、関連する事項はまとめて解説しますね。

というわけで、まず今日取り上げるのは第1編「総則」部分の改正です。


1.意思能力

まずは、意思能力に関する明文規定が置かれました。

第3条の2 法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有しなかったときは、その法律行為は、無効とする。

「意思無能力者が行った契約は、当然に無効となる」ということを定めた条文が新設されたわけで、一見するとかなり重要な改正のようにも見えますが、意思無能力者の法律行為が無効なのは、完全に確立した判例であり、かつ、学説上も「そんなの条文に書いてない」といって反対するような見解も皆無なわけでして、実務上全く影響はない改正となっております。
みんなが当然のように認めてきた法理を、条文に書いただけのお話。

関連して、意思無能力者について、意思表示の受領能力がない(=意思無能力者に対して意思表示してもダメ)ことも98条の2で明確化されますが、これも同じことですね。


2.代理人の行為能力

実は、代理人が法律行為(代理行為)をするには、行為能力を有していなくても構いません(現行民法102条)。
つまり、代理人が制限行為能力者であったとしても、そのことをもって代理行為を取り消すことはできないわけです。

制限行為能力者の行為を取り消すことができるのは、制限行為能力者の保護のためです。
代理行為の効果は代理権を与えた本人に帰属し、代理人には効果が帰属しませんから、取り消すことができなくても制限行為能力者に不利益はないからです。
むしろ、制限行為能力者に代理権を与えた人は、そこから生じうる不利益も覚悟すべきだといえます。

しかし、本人の責任において代理権を与えた場合(任意代理)と異なって、法定代理の場合(例えば成年後見人等)、必ずしも本人の意思によらずに(法律に基づいて)代理権が付与されます。

そこで、現行102条は、代理人が法定代理人の場合にも適用されるのか(法定代理人自身が制限行為能力者であった場合は、その代理行為を取り消すことが可能か)という点で学説も分かれており、適用されないとする見解も有力でした。
法定代理人が制限行為能力者であった場合(例えば、Aさん自身が成年被後見人でありながら、Bさんの成年後見人に就任することも可能なのです)、代理権の行使が無制限に認められると、本人の保護に欠けるからです。

改正法では、この辺を立法的に解決しています。

まず102条は、次のとおり規定が変わります。

第102条 制限行為能力者が代理人としてした行為は、行為能力の制限によっては取り消すことができない。ただし、制限行為能力者が他の制限行為能力者の法定代理人としてした行為については、この限りでない。

それから、被保佐人が単独で有効にすることができない行為、すなわち、保佐人の同意を得なければならない(逆にいえば、保佐人に同意権及び取消権のある)行為として、次の類型が加わりました。

第13条第1項第10号 前各号に掲げる行為を制限行為能力者(未成年者、成年被後見人、被保佐人及び第17条第1項の審判を受けた被補助人をいう。以下同じ。)の法定代理人としてすること

このように、ある人の法定代理人が制限行為能力者であった場合、現行102条が適用されるような結論にはならないことが明確になりました。
すなわち、法定代理人自身が成年被後見人であったとすれば、法定代理人としての行為は取り消すことが可能であり、被保佐人であったとすれば、その人の保佐人の同意を得なければ代理権を行使できない(同意を得ずにした行為は取り消すことが可能)となります。


もちろん、現実問題としては、家庭裁判所はそんなややこしい状況は確実に避けるので、「成年後見人の成年後見人に選任」何ていう話は聞いたことがありませんが、理屈の上ではありえる話なのです。



・・・

あー、代理ぐらいまで一気に解説するつもりが、これだけで結構な分量になりましたね。

続きは次回に回しましょう(てか、このペースだとあと何回投稿することになるんだろうか・・・)。

では、今日はこの辺で。

2017年5月25日木曜日

今話題の債権法改正

司法書士の岡川です。

なんと、5月も終わろうとしているのに今月はまだ1件も投稿してませんでした。
なんてこったい。

ストックしていたネタが枯渇気味であるところに、会務等が重なっており、なかなかブログの方まで手が回っておりません。
うーむ。


さて、気を取り直して。
法律マニア業界で今最もホットな「ネタの宝庫」は債権法改正でしょう。
ネタ枯渇気味の当ブログとしてもこれを取り上げない手はありません。

現在、長年議論されてきた債権法関連の民法改正法案が衆議院を通過して、もうそろそろ成立しそうなところまできています。

厳密にいうと、改正されるのは債権法だけではないので、「債権法改正」というのは正しくないと思いますが、わかりやすいから債権法改正ということにします。
「民法(債権関係)改正」みたいな表記もされますが、「かっこさいけんかんけい」とか言いづらいですし。


「債権法」というのは、「債権法」という名前の法律があるわけではありません。
これは法律(もっと絞れば私法)の分野のひとつであり、文字通り「債権」に関する法を債権法といいます。

俗に「民法は私法の一般法」とよばれるように、民法には、私法領域において原則的に通用するルールが定められています。
民法(私法)全体の共通事項である総則や、所有権等の物権に関する法である物権法、身分関係や相続関係を規律する親族法や相続法も、全て民法の中に(原則的な)規定が存在します。
民法(私法)の一分野である債権法についても、基本的な事項は、「民法」という法律(の特に債権編)に規定されています。

今話題の「債権法改正」というのは、主に民法の「第3編 債権」部分を改正することを指します。

ということで、民法の債権編を中心とする改正ではありますが、改正対象は総則部分にも及んでいます。
民法総則には、債権法にも共通するルールを規定している(総則部分にも債権に関するルールが存在する)からです。


現行民法(特に、親族・相続法を除く「財産法」とよばれる部分)は、明治時代に作られて以来、それなりに大きな改正も含めて、たびたび改正がされてきたものの、実はその基本的な枠組みはあまり変わっていません。
まあ、私人間(繰り返しですが「わたし-にんげん」ではなく「しじん-かん」)の法律関係を規律する基本的な(大まかな)ルールなので、そうコロコロと抜本的に変わることはないわけです。

それが今回の改正で大きく変わることになります。
「明治以来の大改正」とかいわれるのはそのためです。

「明治時代に作られたルールなので、今の時代にあっていない」ともよく言われますが、時代に合わせた細かいマイナーチェンジは何度もされていますし、また、全てのルールが民法だけに定められているわけではなく、多数の特別法が存在しています。
そのため、別に「明治時代にしか通用しないルールがそのまま残っているから変える」というより、長年蓄積されてきた多くの課題をこの機会に一気に立法的に解消しようという感じでしょうか。

なので、文言が変わるだけで、民法が定めている「ルールの中身」は実質的に変わらないことも多くあります。
確立した判例を条文上明記しただけの修正とかですね。

他方で、明確にルールが変更されている部分もありますので注意が必要です。


実質的な変更がされていない部分も含めれば膨大な改正になっておりますので、全部網羅するには結構時間がかかります。

「ちょうど一通り民法の勉強が終わったところ」という皆さんには、もう同情するしかないわけですけど、頑張って勉強し直しましょう。
今から勉強を始める皆さんは、改正のことも念頭に置いて勉強されると良いですね。

というわけで、債権法改正のネタもちょくちょく挟みつつ、ブログの更新も頑張ります。

では、今日はこの辺で。

2017年4月25日火曜日

民法における責任能力(その3)

司法書士の岡川です。

お久しぶりです。
また長いこと放置してましたが、前回に引き続いて今日もまた責任能力の話。
まだ終わってなかったんですね。


さて、民法(私法)上、責任能力が欠ける場合に不法行為責任(損害賠償責任)が否定される根拠として、「過失責任の原則だから」という説明は「当然の理」ではなくなった…というのが前回までのお話(もちろん、そういう説明ができないこともないのですが)。


つまり、必ずしも「過失の成立を認める前提として責任能力を有していなければならない」ともいえない。
そうすると、不法行為の成立要件として責任能力を求める理由は、専ら「加害者の保護」のため、もっといえば政策的な要請によるものであるという説明が有力化しています。


では、価値判断の問題として、責任能力を欠く加害者は保護すべきなのか(保護すべき政策的理由があるのか)が問われます。


確かに、古代より現代に至るまで、責任能力を欠く場合に、刑事上・民事上の責任を問わないという制度は存在し続けてきました。
つまりそれが基本的に妥当であるという価値判断が維持されているわけです。

他方で、そこに異論が全くないかというとそうでもなく、責任無能力者の行為による被害事例がでればやはり制度そのものにも疑問が生じてきます

この点について、改めて考えるきっかけとなりうるのが、JR東海で起こった認知症患者の列車衝突事故です。

事件の詳細は過去の記事に譲りますが、概要としては、認知症患者と列車が衝突してJR東海に損害が発生したために、民法714条に基づいて家族が損害賠償を請求されたが、最高裁判所は、家族の「監督義務者」としての責任を否定したというものです。

前提として、衝突した認知症患者自身は責任無能力者として責任を問われません。
そこで、加害者が責任能力を欠く場合、被害者救済のために、その監督義務者が損害賠償責任を問われるというのが民法714条の趣旨です。

712条と714条をセットで考えると、たとえ責任無能力者の行為として加害者本人の責任が否定されたとしても、その家族等が714条責任を負うことで、結果的に被害者の損害が填補され、損害の公平な分担という不法行為制度の理念・趣旨が全うされることになります。

ところが最高裁は、JR東海事件の判決において、714条で責任を問われる範囲をかなり制限的に解して(例えば、家族や成年後見人であるという理由で直ちに監督義務者になることはない)家族の損害賠償責任を否定したのです。

最高裁が示したような解釈に基づけば、714条責任が成立する場合がほとんど存在しなくなるという批判もありますが、むしろ、家族や成年後見人だからといって、当然のように他人の行為に関して過大な責任を問われる方が不当であり、714条責任が成立しないのであればそれは良いことだ、といえるわけです。

しかし他方で、今回は被害者が超大手の鉄道会社であり、結論として損害賠償請求が認められなくても仕方ない、と理解されていますが、被害者が個人だったらどうなるかという問題も残されています。
例えば、認知症患者が自転車に乗ってて、高速で児童の列に突っ込んで死亡(又は大怪我を)させたとしたら、感情的にも「判断能力なかったんだから仕方ないよね」では済まない問題になります。


ここで、714条を広く解することで家族等の責任を問うという方向性もあり得ますが、最高裁の判断にあるとおり、個人責任が原則の現代社会において、家族や成年後見人が当然のように責任を問われるべきではない。
加害者の家族等が不当な責任を負うべきでないという点においては、被害者が会社だろうが個人だろうが違いはないはずです。


そうすると、被害者の損害は誰が填補するのが公正・公平だといえるか。

社会的(公的)救済という方向性を模索するのもひとつの方法です。
被害者は存在するけど加害者に責任を問えないのであれば、社会として(公的な保障制度によって)その損害を負担しようという発想です。


一方で、そもそも責任能力制度を疑問視し、責任無能力者(重度の精神障害者等)であっても不法行為責任を問いうる制度にすべきという主張もあります。

現行法でも、例えば自動車賠償保障法(自賠法)3条の運行供用者責任には民法713条の適用がないというのが判例通説であり、したがって、交通事故の加害者は責任無能力であっても損害賠償責任を負います。

被害者救済の観点から言えば、特殊な責任だけでなく、もっと一般的に、あらゆる不法行為について責任能力の有無を問わずに責任を負わせるべきではないか。

一般的な個人賠償責任保険は、責任無能力者が他人に損害を与えても保険金は出ません。
これは、責任無能力者は損害賠償責任を負わないので、保険会社としては保険金を出す理由がないからです。
もし精神障害の有無にかかわらず損害賠償責任を負うということになれば、賠償責任保険もそれに対応することになるでしょう。


諸外国の立法例では、フランス民法のように、判断能力の有無にかかわらず不法行為責任を負うという規定も存在します。
また、判断能力の欠如は免責事由になることを前提に、最終的には責任無能力者にも(一部)損害賠償責任が認められる場合もあるという規定も存在します(ドイツ民法など)。


つまりは、「責任無能力者は損害賠償責任を負わない」ことが(近代法における)絶対的な原則ではないことが分かります。

「責任能力」の問題については、世間的には大きな犯罪が起こった場合に(すなわち、刑法上の責任能力が)問題となりますが、民法上の責任能力制度の是非についても、議論が本格化しても良いのかもしれません。

まあ、今のところそういう動きはなさそうです。



というわけで、長いこと連載してきた(でも投稿数は5回だけ。何でかな?)責任能力シリーズもこれでひとまず終わり。

次からは、民法改正の話でも書くかな。
書かないかもね。

では、今日はこの辺で。

責任能力シリーズ
1.心神喪失により無罪となる場合
2.刑法上の「責任」とは何か
3.民法における責任能力(その1)
4.民法における責任能力(その2)
5.民法における責任能力(その3) ← いまここ

2017年4月6日木曜日

民法における責任能力(その2)

司法書士の岡川です。

ちょっと時間が空きましたが、前回に引き続き、なぜ責任能力のない人が不法行為責任を負わないのだろうか、という話。

不法行為責任とは、損害賠償債務の発生を意味しますから、これは言い換えると、「なぜ責任能力のない人は、加害行為について損害賠償債務を負わないのか」という問題になります。

さて、民法上の原則としては、「過失責任主義(過失責任の原則)」があります。
不法行為による損害賠償債務の発生根拠が行為者の「過失」に求められるという考え方であり、逆に、行為者に損害賠償責任を負わせるには過失が必要であるという原則でもあります。
もちろん、故意がある場合はなお悪いので、当然に責任を負いますが、不法行為の要件として故意と過失は区別されません。

民法では、この過失責任主義というのが重要な原則、帰責原理として位置づけられます。

ということで不法行為責任の根拠が行為者の過失に求められるのであれば、責任能力についても過失責任との関連で説明をするとよさそうです。
すなわち、「過失」とは、結果の発生を予見できたにもかかわらず不注意で予見しなかったという心理状態であるというのが伝統的な見解です。
結果の発生を予見するには、その前提として一定の精神的能力が必要だと考えられますから、それが責任能力だというわけです。

つまり、故意や過失は、責任能力があって初めて認められる(責任能力を「前提」とする)主観的要素であるということになります。
逆にいうと、責任無能力者について故意や過失を観念できないということになり、したがって過失責任主義の下では、(過失の前提を欠く)責任無能力者に損害賠償責任を負わせることができないという結論に至るわけですね。


ところが、故意や過失を、責任能力を前提とする単なる「心理状態」とは理解せず、今日では、過失を「結果を回避すべきであったのにそれをしなかった」という結果回避義務違反と理解する見解(これは、刑法における旧過失論から新過失論への変遷と同じですね)も有力になっています。

このように理解した場合、「責任能力は過失の前提である」というのは必然ではなくなります。
刑法理論では、むしろ責任能力は過失とは別の独立した要素と理解するのが一般的ですので、責任能力が過失の前提であるというのは自明の理ではないのです。

責任能力が故意・過失と全く別の要素であるならば、責任無能力者について(客観的な)過失が認められた場合に責任を問うとしても、過失責任主義に反しないわけです。

そうなると、過失責任主義との関係から、当然に責任無能力者の損害賠償責任が否定される、とはいえなくなりますね。

そこで近時では、責任能力を欠く者の行為が免責されるのは、「加害者の保護」という政策的な配慮だという説明も有力化しています。


ではさらに進んで、本当に責任能力を欠く加害者を保護することが、公正なのか。
それが政策的に正しいといえるのか、むしろ責任能力を欠く場合も責任を負わすほうが損害の公平な分配といえるのではないか。

そんな議論にも発展していきます。

また長くなったので、そんな議論については次回に回しましょう。

では、今日はこの辺で。

2017年3月19日日曜日

民法における責任能力(その1)

司法書士の岡川です。

前々回前回と、責任論という刑法学のディープな話をしました。
ここからまたマニアックな刑法の話に進んでいくことも考えなくもないのですが、ぐるっと私法分野の話に大きく舵を切ることにします。

私ってホラ、業務的には民事法が主戦場ですし?


これまでも度々このブログでも出てきていますが、民法上の責任能力の規定は、712条と713条にあります。
条文の場所からもわかるとおり、民法における責任能力は、不法行為に限った問題なのですが、他人の権利を侵害する違法行為という意味では、民法上の不法行為と刑法上の犯罪には共通するものがあります。

712条は、未成年者の責任能力に関する規定なのでとりあえず置いといて、713条を見てみましょう。

第713条 精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者は、その賠償の責任を負わない。ただし、故意又は過失によって一時的にその状態を招いたときは、この限りでない。 

刑法が「心神喪失者の行為は、罰しない。」というシンプルな(かつ何のことかよくわからない)書きぶりなのに対して、民法では、より具体的に「精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある」と書いています。
実は、口語化される前は、民法でも「心神喪失」という語が使われていましたが、改正されたという経緯があります。

なので、結局は刑法の規定と似たようなものなのですが、民法においては「制御能力」というものは考慮されません。
「制御能力だけを欠く」ような事態は、あまり民法では意識されていないのでしょうか(定義に含まれていないので、解釈論としてもあまり問題にされていないように思います)。
ちなみに、但し書き部分については、刑法の条文にはない規定ですが、刑法上でも解釈論として意図的に心神喪失状態を招いた場合は責任を問いうるとされています(「原因において自由な行為」といいます。またそのうち)ので、ここもあまり差は出ません。


まあ、そういう微妙な定義のズレは無視して、民法でも刑法と同じく、典型的な精神病(例えば重度の統合失調症)によって自己の行為の(法的な)善悪を認識できない人は、たとえ「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害」したとしても、損害賠償責任を負いません。


民法にも刑法と同じようなルールがあるということは、刑法における責任能力(心神喪失)の議論と同じ疑問が生じます(生じますよね?)。

なぜ責任能力のない人は、損害賠償責任を負わないのでしょうか。


私法と公法が分化していなかった古代においても、精神病者等の(近代法でいうところの)責任無能力者に対する責任を免除する考え方はあり、そこでは(近代法でいうところの)損害賠償責任が否定されていました。
結論として「責任能力を欠く場合に責任を問えない」とする制度は、現代に至るまで妥当なものと考えられ、近代的な民法にも刑法にも制度として残っているわけです。

ただ、その結論を導く理由は何か、という点では、民法と刑法ではそれぞれ独自に責任能力の理論が発展していきます。
同じような制度なのに、民法(不法行為論)と刑法(犯罪論)とでは、議論の枠組み(前提)が全く異なるのです。

例えば、民法には刑法でいう「責任主義」という考え方はなく、「責任」を独立の成立要件として問題にすることはあまりありません。
そのため、民法ではあまり(抽象的に)「責任の本質は何か」という議論にはなりません。

「責任能力」が「責任要素のひとつ」に位置付けられて論じられる刑法の論理展開では、責任能力の欠如は責任の欠如につながり、責任の欠如が犯罪成立の否定につながる、という流れになります。

他方そこまで細かく分析しない民法では、責任能力の欠如は、すなわち不法行為の成立の否定という話になります。
(※専門的な話をすれば、一応、不法行為の各成立要件を違法要素と責任要素に振り分けて論じることはあるのですが・・・結局その「責任」とは基本的には過失のことを念頭に置いており、刑法ほど体系的な議論が前面には出てこないのです)

そこで問われるのは、(独立した成立要件としての)「責任」の本質ではなく、まさに不法行為制度(あるいは不法行為責任)の本質や根拠です。
つまり他人に損害を与えて者に対して損害賠償を義務付ける(加害行為から損害賠償債務が発生する)根拠は何か、あるいはその逆で、債務が発生しない根拠は何か、が端的に議論の対象となるわけです。

ちょっと長くなってきたので、続きは次回

では、今日はこの辺で。